2012年4月27日金曜日

仏教はなぜ女性を差別するのか


1. 女性を蔑視する仏教言説

仏教は女性蔑視の宗教であると言われている。例えば、『増一阿含経』には、以下のような、女性を蔑視する記述が見られる。

世尊、長老に告げて曰く、女人に九つの悪法あり。云何が九つと為すや。一に女人は臭穢にして不浄なり。二に女人は悪口す。三に女人は反復なし。四に女人は嫉妬す。五に女人は慳嫉なり。六に女人は多く遊行を喜ぶ。七に女人は瞋恚多し。八に女人は妄語多し。九に女人は言うところ軽挙なり

お釈迦様は、長老に「女には、九つの悪い属性がある」とおっしゃった。その九つの悪い属性とは何か。女は、1、汚らわしくて臭く、2.悪口をたたき、3.浮気で、4.嫉妬深く、5.欲深く、6.遊び好きで、7.怒りっぽく、8.おしゃべりで、9.軽口であるということである。

[増一阿含経,第41巻,馬王品]

仏教の開祖、ガウタマ・シッダールタは、女性(彼の養母であるマハーパジャーパティー)が教団に加わることを歓迎せず、八敬法を遵守するという差別的な条件付きでようやく許可したと『パーリ律』は伝えている。さらに、五障説[r]・変成男子説によると、女性は、どんなに仏道修行に努め励んでも、女身のままでは仏となることは不可能で、成仏するには男の姿に転じなければならない。仏教が、カースト制度による伝統的な差別を否定し、万人の平等を説く宗教であることを考えるならば、仏教の女性差別を軽視することはできない。

[r] 五障説とは、女性は、梵天王・帝釈天・魔王・転輪聖王・仏陀の五つにはなれないという説。『法華経』十二「提婆達多品」には、女は成仏することができないというシャーリ・プトラ長老に対して、竜女が、女の身を転じて、男の姿となって成仏するという竜女成仏譚がある。竜は本来女であることについては、[論文編:浦島物語の起源は何か]を参照されたい。

もとより、こうした女性差別の言説が見られる経典は、比較的後の時代に成立したものである。初期の文献でも、「女人は《清らかな行い》の汚れであり、人々はこれに耽溺する」[ブッダ神々との対話―サンユッタ・ニカーヤ1, p.43]というような、女性蔑視と受け取れる発言があるものの、ガウタマ本人には、女性に対する偏見がなかったと考えることができる。しかし、後に教団内に生じることになる女性差別の萌芽を、ガウタマの思想の中に見出すことができる。すなわち、ガウタマは、女性を差別することはなかったが、女性原理を拒絶していた。

2. 人類史の男根期

女性原理の優位から男性原理の優位へという思想・宗教上の変化は、枢軸時代と呼ばれる、ガウタマが生きた時代の世界的潮流であった。ガウタマが仏教を興した頃、バビロン捕囚を契機としたユダヤ教の誕生(BC586)、ザラスシュトラ(BC628-551)によるゾロアスター教の創唱、孔子(BC551-479)による儒教の成立、プラトン(BC427-347)によるイデア論の提唱など、世界同時多発的に精神革命が起きた。

In China lebten Konfuzius und Laotse, entstanden alle Richtungen der chinesischen Philosophie, dachten Mo-Ti, Tschuang-Tse, Lie-Tse und ungezählte andere, ? in Indien entstanden die Upanischaden, lebte Buddha, wurden alle philosophischen Möglichkeiten bis zur Skepsis und bis zum Materialismus, bis zur Sophistik und zum Nihilismus, wie in China, entwickelt, ? in Iran lehrte Zarathustra das fordernde Weltbild des Kampfes zwischen Gut und Böse, ? in Palästina traten die Propheten auf von Elias über Jesaias und Jeremias bis zu Deuterojesaias, ? Griechenland sah Homer, die Philosophen ? Parmenides, Heraklit, Plato ? und die Tragiker, Thukydides und Archimedes.

中国では、孔子と老子の時代で、すべての中国哲学の方向性が打ち出され、孟子・荘子・荀子その他無数の思想家が現れた。インドでは、ウパニシャッド哲学が成立し、仏陀が登場し、中国と同様に、懐疑論から唯物論まで、詭弁学派からニヒリズムに至るまで、あらゆる哲学的可能性が発展した。イランでは、ザラスシュトラが、善と悪の戦いという挑戦的世界像を説く。パレスチナでは、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、第二イザヤといった預言者が現れた。ギリシャでは、ホメロス、パルメニデスやヘラクレイトスやプラトンといった哲学者、悲劇作家、ツキディデス、アルキメデスが現れた。

「天にまします父なる神」と「母なる大地の神」と人類との三角関係が重大な変容を被るこの時代を、フロイトのリビドー発達段階の用語を用いて、人類史における男根期から潜伏期への移行期と位置付けたい。

男根期とは、エディプス・コンプレックスが生まれ、そして消滅する、3歳から5歳の間の時期である。男の子は、当初、ライバルである父親を殺害し、母親と性交したいという、ギリシャ神話のエディプス王と同じ欲望を持つが、去勢不安から、この欲望を断念し、父親との自己同一と禁止の内在化を始める。母親を欲望するのではなくて、母親の欲望の対象であるファルスを欲望する。すなわち、父親を自我理想として超自我を形成し、母親を、去勢された、劣った性として軽蔑するようになる。

これと同じことが枢軸時代に起きた。この時代は、サブアトランティック寒冷期の谷間にあたる。母なる自然が冷たくなって、子供の母離れが促進される時期である。母子一体の安逸をむさぼっていた人類は、今や、天罰という名の去勢におびえつつ、父なる神から与えられた禁欲的な戒律を遵守することで、死後の魂の救済を願うようになる。ちょうど、男の子が、母との性交を断念し、父との同一化を続けて、結婚によって形成される次の世帯で、母の代替(妻)との性交が可能となるように、当時の人々は、現世での幸福を断念し、父なる神の教えに従うことで、来世で幸福となることが約束されたのである。


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フロイトは、西欧の文化で育った人だから、彼の理論をユダヤ-キリスト教に適用することは容易である。しかし、仏教への適用となると、容易ではない。仏教、すなわちガウタマの教えは、本来は、これから説明するように、自発的去勢を勧める処世術であり、父なる神の崇拝を否定する反宗教だからである。にもかかわらず、仏教は、最終的には、キリスト教やイスラム教と同様に、父神崇拝の宗教となった。それはどのようにしてであるかが、この論文の主題である。

3. 自発的去勢としての自傷行為

ガウタマの本来の教え(根本仏教)とは、結論を非常に簡単に言ってしまうならば、苦から逃れるためには、苦の原因である執着を捨てろというものである。欲望を満たそうとするから、不満になるのであって、欲望を自ら根源的に捨てれば、つまり、自発的に去勢すれば、不満(苦)から根源的に解放される。ガウタマは、苦行という自傷行為を通して、この自発的去勢の真理に到達した。苦行といっても、ジャイナ教的な、肉体を極限状態に追い込む、一見ラディカルなようで、実は中途半端な方法によっては、ガウタマは最終解脱の境地に達することはできなかった。涅槃の境地に達するために必要なことは、肉体への自傷行為(例えば、ペニスを切り捨てるなど)ではなくて、欲望への自傷行為(性欲そのものを切り捨てるなど� ��である。

神聖な修行を自傷行為と形容して病気扱いするのはけしからんと仏教徒から叱られそうだが、出家と自傷行為には、その動機において、共通点がある。例えば、失恋した女性が髪の毛を切るという軽微な自傷行為を例にとって考えてみよう。女性は、元彼という「後ろ髪を引かれる思い」を切り捨てるために、髪の毛を切り捨てる。ふられるということは、プライドが傷つくショッキングな体験である。だから、「私は彼から切り捨てられたのではない。私が彼を切り捨てるのだ」と自分に言い聞かせるように、髪を切り捨て、自分のプライドを守って、失恋という苦から逃れようとする。

手首や腕や足を傷つける場合も同様である。自傷症は、しばしばそう誤解されているような、自殺願望の病気ではない。自傷症は、通常次のように定義される。

[...] the deliberate mutilation of the body or a body part, not with the intent to commit suicide but as a way of managing emotions that seem too painful for words to express.

自殺するためではなくて、筆舌に尽くしがたいほど苦痛に満ちた感情を処理する一つの方法として、身体もしくは身体の一部を意図的に傷つけること

実際、自傷行為が自殺につながることはまれである。それは失われた主体性を取り返し、傷ついたプライドを癒す行為であって、結果として自殺の防止に役立っている。逆説的な表現を用いるならば、自傷症患者は、自らを傷つけないために自らを傷つけるのだ[a]。この逆説は、欲望を満たすために欲望を満たさないという仏教の逆説に対応している。

[a] 朝日新聞が得意とする、いわゆる自虐史観も、自発的去勢の結果生まれた歴史解釈である。自虐史観の提唱者は、他の民族から戦争責任を指摘される前に、自ら懺悔することで、民族の主体性を取り戻そうとしているのであって、民族の誇りを失うことを恐れている点で、いわゆる自由史観を提唱する国粋主義者たちと大きく異なるわけではない。朝日新聞の購読者には高学歴のインテリが多いが、高学歴の人には、自発的去勢により禁欲的に勉学に励んだ人が多いから、自虐史観に共鳴する傾向がある。

失恋した女性は、普通、髪の毛をすべて切り落とすことはしない。それは男に対する未練をすべて捨ててはいないことの証拠である。これに対して、すべての執着を捨てて、出家する人は、髪の毛をすべて切る。ガウタマも、出家の後、剃髪した。そして、断食もおこなった。断食を行うことは、拒食症の症状と似ている。そして、拒食症も自傷症の一種である。拒食症患者は、本当は愛に飢えているにもかかわらず、「(愛・食事等を)得ることができずに飢えているのではなくて、欲しくないから得ないだけだ」ということを体をもって示すことで、主体性のプライドを守ろうとする[論文編:拒食症はダイエットが原因か]。拒食症患者は、しばしば誘惑に負けて過食症になるが、ガウタマは、拒食でも過食でもない、禁欲主義で� ��快楽主義でもない中道を歩んだという点で、迷える並みの拒食症患者とは異なる。

4. ガウタマの出家動機

では、ガウタマは、何かプライドを傷つけられる挫折体験があって、出家したのだろうか。ガウタマの出家に関しては、四門出遊という伝説がある。ガウタマが東の門から出ると、老人に出会った。南の門から出ると、病人に出会った。西の門から出ると、死者の葬列に出会った。こうして彼は、老・病・死という苦に満ちた人生の現実を目の当たりにした。ところが、北の門から出ると、輝かしい出家修行者に出会い、自らも出家しようと決意したというのである。ガウタマの出家の真相を知ろうと思うならば、こうした類の、後の時代に作られた仏伝は無視して、最も古い経典、『スッタニパータ』に収められている「出家経」を手掛かりに、当時の時代状況を考慮に入れて推論しなければならない。


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「出家経」には、「出家して身による悪行を離れ、言葉による悪行を捨て、生活をすっかり浄めた」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.407]とあるだけで、出家した経由が詳しく書かれていない。その代わり、出家した後、ガウタマが、故郷から遠く離れたマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)まで托鉢のために来たところ、マガダ国王が、彼に注目し、彼が隠遁する山窟にまで赴いて、軍事力の提供を申し出たが、断られたという奇妙な話が長々と書かれている。これは、今で言うと、出家を決意した中国のある田舎者が、日本の永田町まで托鉢のために来たところ、日本の総理大臣が、「立派なお坊さんだ」と感心して、彼に注目し、彼が隠遁する富士山の山窟にまで赴いて、自衛隊の指揮権を委ねようと申し出たが、断られたというのと同様の、荒唐無稽なストーリーである。

しかし、ここに、ガウタマの隠された願望を読み取ることができる。夢とは願望充足の表現であるとするフロイトは、

Man darf darum, wenn ein Traum seinen Sinn hartnäckig verweigert, jedesmal den Versuch der Umkehrung mit bestimmten Stücken seines manifesten Inhaltes wagen, worauf nicht selten alles sofort klar wird.

ある夢の意味がどうしてもわからないような場合には、その夢の顕在内容の特定諸部分を試みに逆にしてみるとよい。そうすると一挙に解決のつくことがある。

と言っている。「反対物への転化」を元に戻すならば、この話の原型は、ガウタマがマガダ国王に軍事力の提供を申し出たところ、断られ、出家したというようのものだったはずだ。そして、このストーリーなら、歴史的なリアリティがある。

ガウタマ・シッダールタの父は、釈迦族の政治的指導者であった。釈迦族はコーサラ国王の支配下にあったが、釈迦族は独立心が強く、南のマガダ国と同盟を結び、南と北からコーサラ国を挟撃しようと企んだ。ガウタマは、この外交工作のため、王舎城に赴いた。ところが、当時のマガダ国は、ベンガル湾に進出しようと、ガンジス川下流のアンガ国と戦争している最中で、背後の安全を確保するために、コーサラ国と政略結婚をするなどして、平和な関係を築くことに努めていた。だから、マガダ国王は、ガウタマの軍事援助の要請をにべもなく断った。こう推測できる [磯部 隆:釈尊の歴史的実像, 第一章第三節]。

後に、コーサラ国は、釈迦族を滅ぼすことになるのだが、先見の明があるガウタマは、この時既に釈迦族の運命を悟り、意のままにならない政治的現実を前に、出家したと考えることができる。ガウタマは、「クシャトリヤの家に生まれた人が、財力が少ないのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、これは破滅への門である」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.114]と述べているが、これは彼自身のことを言っているのに違いない。

釈迦族は、カピラヴァストゥ(現在のインドとネパールの国境付近にある城郭都市)に住んでいた部族である。彼らが自分たちの土地を望んだということは、母なる大地を我が物としたいという欲望を持っていたということである。そして、コーサラ国王が、軍事力で脅して、釈迦族の独立を認めなかったことは、権力者(父)が、母子相姦を禁止し、去勢の威嚇をしたということである。ガウタマの出家はこれに対する防御反応であった。ちょうど、失恋した女性が、「自分は捨てられたのではなくて、自分から捨てたのだ」と自分に言い聞かせて髪を切り捨てるように、彼は、「自分は去勢されたのではなくて、自ら去勢したのだ」、「自分は、マガダ国王に軍事援助の要請を申し出て断られたのではなくて、マガダ国王が申し出た� ��事援助を断ったのだ」と自分に言い聞かせて出家した。こうした願望を充足するために、史実に二つの逆転を施し、『スッタニパータ』の「出家経」が生まれた。私はそう解釈したい。

5. 死の欲動と涅槃の境地

ガウタマが行った自発的去勢は、フロイトの分類を使うならば、死の欲動の産物である。フロイトは、涅槃原則というバーバラ・ロウの仏教的表現を借用し、涅槃原則と快感原則を死の欲動と生(性)の欲動に対応させている。

Daß wir als die herrschende Tendenz des Seelenlebens, vielleicht des Nervenlebens überhaupt, das Streben nach Herabsetzung, Konstanterhaltung, Aufhebung der inneren Reizspannung erkannten (das Nirwanaprinzip nach einem Ausdruck von Barbara Low), wie es im Lustprinzip zum Ausdruck kommt, das ist ja eines unserer stärksten Motive, an die Existenz von Todestrieben zu glauben

私たちは、刺激に対する緊張状態を減らし、一定に維持し、終結させようとする努力を、心的生、神経的生一般の支配的傾向として認識した。これは快感原則が現れる時と似ているが、こちらは、バーバラ・ロウの表現にしたがって、涅槃原則と名付けよう。この認識こそは、私たちが死の欲動の存在を信じる最も強固な動機の一つである。

しかし、性的快感は死の欲動に属するのではないだろうか。この点をはっきりさせるために、快感と享楽というラカンの区別にしたがって、快感原則を享楽原則と名付け、生の欲動は、現実原則に従う欲動とすることにしよう。


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フランス語の享楽"jouissance"には、「性的快楽、オルガスムス」という意味もあって、無制限な快感を表す言葉として使える。それは、バタイユが謂う所のエロティシズムの快楽であり、エロティシズムにおいて、人はエクスタシーという擬似的な死を体験する。これに対して、涅槃原則に基づく自発的去勢は、エロティシズムの快楽を断念することなのだから、両者は全く異なる。エロティシズムが主体性を放棄して母なる大地に戻ろうとする胎内回帰の欲動であるのに対して、自発的去勢は、母子相姦を自主的に断念することで、主体性を回復しようとする欲動なのである。ガウタマは、「諸々の汚れと執着のよりどころとを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない」[ブッダのことば―スッタニパータ, No.535]と言っている。これは輪廻としての胎内回帰から解脱したことを宣言したものと解釈できる。

生物学的には、現実原則と涅槃原則と享楽原則は、次のように区別される。現実原則は、個体保存のための個体保存の行為を、涅槃原則は、個体保存のための個体破壊の行為を、享楽原則は、種保存のための個体破壊の行為をもたらす。現実原則が、純粋な生の欲動で、享楽原則が、純粋な死の欲動であるのに対して、涅槃原則は死の欲動のような外観を持った生の欲動である。すなわち、自傷行為は、自殺行為のように見えて、実は自殺を防止するための行為である。これに対して、享楽では、人ははめをはずしすぎて死に至ることがしばしばある。

表1.『快感原則の彼岸』でのフロイトの二分法
死の欲動 涅槃原則
生(性)の欲動 現実原則(快感原則)
表2. 私が提案する区別
種保存 死の欲動 快感原則(享楽原則)
個体保存 涅槃原則
生の欲動 現実原則

フロイト以来、二つの死の欲動が混同されてきた。仏教の密教的解釈も。二つの死の欲動の混同から起きる。中沢新一によると [中沢 新一:ブッダの方舟, p.39-40]、チベットには、ガウタマが母と近親相姦をしたとか、降魔成道の際、セックスをしまくって悟りを開いたといった、とんでもない仏伝があるそうだが、セックスのエクスタシーで体験される幽体離脱を解脱と曲解し、その絶頂に涅槃の境地があるとする、チベット密教的・タントラ的・ヨーガ的・立川流真言的・中沢新一的な仏教理解では、仏教のどこが歴史的に画期的なのかがわからなくなる。中沢新一が、チベットで修行して見出したものは、原始仏教でもなければ、ましてやポストモダンでもなく、仏教以前の原始宗教に過ぎない。

タントラやヨーガの起源はインダス文明にまで遡ることができるが、ガウタマの時代に、インドで支配的だった宗教は、バラモン教である。バラモン教もまた、涅槃原則よりも享楽原則に基づく自然宗教としての色彩が強かった。バラモンが司るヴェーダ祭式にその特徴を見ることができる。祭官(バラモン)は、犠牲獣を屠り、ソーマを供物として祭火に注いだ後、残りを飲む。ソーマの原料には、幻覚作用のあるキノコが使われていたと考えられている。一種のドラッグである。それを服用することで、トランス状態となり、そのエクスタシー体験で得られたインスピレーションから、多くのヴェーダの詩句が生み出された。祭火が据えられたアグニ祭壇は、大鷲の形をしていたが、それは、天地の間を自由に飛び、祭主を天界まで� ��る鷲をイメージしたものだった。

祭祀での神秘的霊感を哲学的に説明した『ウパニシャッド』では、梵我一如、すなわち、大宇宙(自然界、ブラフマン)と小宇宙(個人、アートマン)との合一の真理を悟って輪廻から解脱することが説かれている。ブラフマンは、元来は「神聖な知識」という意味で、女神ヴァーチとして神格化された。ブラフマンは、現在のインドの神話では、ヴィシュヌ、シヴァとともに三大主神を形成するブラフマーに相当するのだが、男性神としてのブラフマーは、非常に抽象的な神で、存在感がない。それもそのはずで、ブラフマンは本来女で、ブラフマーの妻にして娘ということになっているサラスヴァティーが本当のブラフマンだからである。

ブラフマンが女だとするならば、梵我一如という神秘的合一(unio mystica)は母子相姦で、解脱とはエクスタシー(脱我)のことであると解釈できる。こうした、エロティシズムを神秘的な体験とする自然宗教は、去勢コンプレックス以前の時期には、世界のいたるところに存在していた。サブアトランティック寒冷期という去勢不安の時代に自発的去勢を行った仏教やジャイナ教は、バラモン教のような自然宗教に対するアンチテーゼとして、歴史を画期する意義を持つ。

6. 仏教のディレンマ

ガウタマは、自発的去勢により、涅槃の境地に達した。しかし、ガウタマの悟りには一つ問題があった。煩悩を捨てるといっても、食欲を完全に捨てるわけにはいかない。ガウタマは、

およそ苦しみが起こるのは、すべて食料を縁として起こる。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

と言っているが、何も食べなければ、餓死してしまう。かといって、食糧を生産するために、土地を耕すと、土地(地母神)に対する執着が生まれる。そこで、当時の慣習に従って、ガウタマは、在家信者から托鉢してもらうことで、生き長らえた。


在家信者に布施や托鉢をしてもらう対価として、ガウタマは何をしたのだろうか。自分が悟った真理を教えたのだろうか。これは原理的にはありえない。もしも在家信者が、ガウタマと同様のブッダ(覚者)になろうとするならば、出家して修行をしなければならず、布施や托鉢をするだけの生産能力を失ってしまう。ガウタマの教えをすべての信者が実践しようとすると、全員が餓死して、仏教もそれとともに消滅してしまう。その意味で、ガウタマが悟った真理には、普遍性がなかったと評さなければならない。

そこで、ガウタマは、功徳を積んだ在家信者に、来世での果報を約束しなければならないはめになった。ガウタマは、在家信者に

彼[聖者]に対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌して彼を礼拝せよ。飲食物をささげて、彼を供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。

と言っている。反対に、聖者をそしったり、悪意を抱くものは、地獄に落ち、気の遠くなるような年月の間、筆舌に尽くしがたい苦しみを味わうことになるとも警告している [ブッダのことば―スッタニパータ, No.657-678]。

ガウタマ自身は、来世や魂の不滅や輪廻を信じていなかったようで、その意味で、新しい宗教の開祖になるつもりはなかったと考えることができる。しかし、世俗の人たちは、仏教の出家僧に、来世での幸福の保証人の役割を期待した。こうして大乗仏教が成立するわけだが、実は、在家信者を救済するという点で、上座部仏教も大乗仏教も違いがない。上座部仏教が信仰されている東南アジアには、福田思想と呼ばれるものがあって、在家信者が自分の子供を出家させたり、托鉢の僧に食事を寄進したりして、功徳を積めば、来世における幸福な再生が保証されると信じられている。タイのように、寺院に金品を寄進する在家信者に、「祝福の証し」という領収書を発行しているところもある。蒔いた種が間違いなくプンニャ(功徳)� ��なって実る田という意味で、福田なのだ。

仏教発祥の地であるインドで、仏教がすたれたのは、ガウタマとその教えに忠実だった後継者たちが、大衆の低レベルな宗教的欲望を満たすことに熱心でなかったからだと考えることができる。インドの仏教僧たちは、王侯・貴族・地主・豪商など社会の特権階級からの布施や土地の寄進に依存しており、一般民衆からは遊離していた。ジャイナ教は、在俗信者にも十二の小誓戒を厳守させ、彼らの宗教的救済をしたために、インドでも今日まで生き残っているが、インド仏教は、在俗信者の救済に熱意がなく、彼らに戒律の遵守を強制することもなかった。イスラム側の史料『チャチュナーマ』によると、8世紀の前半にイスラム帝国がインドに侵入した時、仏教僧たちは進んでイスラム教に改宗し、仏教寺院をモスクにしてイスラム式 の祈りを取り入れた [保坂 俊司:インド仏教はなぜ亡んだのか―イスラム史料からの考察, p.142-143]。インドの仏教僧は、崇拝するべき神を持たなかったから、異教の神を容易に受け入れることができたのであろう。インド仏教は、1203年に最終的に消滅した。

7. 仏教におけるファルス崇拝

インド以外の地では、ガウタマが、自発的去勢により、父神との同一化を拒否したにもかかわらず、後世、上座部仏教でも大乗仏教でも、大衆によって神の如きファルス的存在へと祭り上げられたのは皮肉なことのように思える。だが、この点で、仏教が、父権宗教の典型であるキリスト教と大きく異なるということはない。

ファルスは、社会システムにおいて、ダブル・コンティンジェントな複雑性を縮減するコミュニケーション・メディアとして機能するのだが、この機能を果たすためには、ファルスは、私的特殊性を捨てて、普遍的存在者とならなければならない。貨幣商品が、使用価値を捨象することで、貨幣という純粋なコミュニケーション・メディアになることができるように、宗教家は、自らの私的所有物を捨象することで、神という宗教的なコミュニケーションのメディアとなることができる。イエス・キリストは、十字架で死に、肉体という私的で特殊な所有物を捨てることで普遍的な神となった。同様に、ガウタマは、命こそ捨てなかったが、私的で特殊な所有物に対する執着を捨てることで、死後、神に等しい普遍的な存在者となった。� ��預言者→罪人→神》というイエスがたどった三段階と《王族→苦行者→覚者》というガウタマがたどった三段階は、ともに《ケ→ケガレ→ハレ》というスケープゴートの弁証法として理解することができる。

8. 仏教が女性を嫌う理由

最後に、「仏教はなぜ女性を差別するのか」という最初の問題提起に答えることにしよう。これには、二つの理由が考えられる。

まず、ガウタマが行った自発的去勢は、母子相姦の自発的断念であるから、性欲は最も忌諱しなければならない煩悩の一つである。『転女身経』には、次のような、極めつけの描写がある。

女のからだのなかには、百匹の虫がいる。つねに苦しみと悩みとのもとになる。[…]この女の身体は不浄の器である。悪臭が充満している。また女の身体は枯れた井戸、空き城、廃村のようなもので、愛着すべきものではない。だから女の身体は厭い棄て去るべきである。

このように、仏教が女性を不浄視するのは、「もしも女が臭くて汚いなら、性欲が起きなくてよいのに」という願望をみたすためである。仏教の教義には、こうした、実現の願望を願望の実現に摩り替えるトリックがたくさんある。


もう一つの理由は、ガウタマ本人の意思に反して、ガウタマが「仏様」という、来世での幸福を保証するファルス的存在へと祭り上げられ、仏教が父権宗教になってしまったことである。世界宗教は、キリスト教もイスラム教も、すべて男尊女卑の父権宗教であり、仏教だけが女性差別をしているわけではない。

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